886
私の精神の風景描写でもある、886のオープニング曲である。
私は、例えばアルバムに於いてキーと成る旋律は一夕一朝に作ることはしない。
この曲ででてくる数多くの旋律は今までの人生で何度も頭の中を駆けめぐってきた物ばかりである。
それらがふんだんに詰め込まれた本曲だが、私の人生の集大成である本作のオープニングにふさわしい曲になったと思う。
作曲 児玉龍典
アルバムの心臓とも言える、886のテーマ曲である。
タイトルの意味は「886の根本的な方針」という意味があるが、いずれにせよわかりにくいタイトルであることは間違いない。
肝腎の曲の方はというと、混沌とした重低音とノイズにあふれている。しかも五分半と、大変長い。これを聴いて単純明快なポップスであると感じた方は、今後の研究のためご一報いただけるとありがたい。
886の根本的な精神とは 作詞 赤堀 剛 作曲 児玉龍典
『886』の名を冠する曲が複数存在している。いずれも私にとってはアルバムの中核をなす重要な曲である。
この曲の大意は『886環境ヘの適合』であり、アルバム全体にとっては『886の玄関を開けたあとに侵入する第一の部屋』みたいなものである。
曲そのものは、これまた混沌としたヘヴィなラップ調である。
平凡なサラリーマンの男性が『極悪非道な置き手紙』によって徐々に『886環境』に適応して 作詞 赤堀 剛 作曲 児玉龍典
ホントにごくごく少数の方々にとって、毎度おなじみ今回の動物シリーズである。(例:CHICKEN BLUES、CRICKET等)
要するに、「騒ぐ理由を誰かくれ!」といった内容の歌である。
日常の何気ない楽しみにも、誰かしらに理由を求めてしまう現代人の姿を誰かなんとかしてあげたらどうであろうか?
おっと!私も人任せにするところであった。
このような、気の抜けた歌も886の要素 作詞 児玉龍典 作曲 児玉龍典
まめ子がボーカルをとったファンク・ロックの曲である。
前作収録の「冬のため息」とは対照的な作品にしようと思い、結構やりたい放題やっている。
勿論ボーカルも、である。
人間の感情はある一線を越えると本末転倒を起こす。本人はそれに気がつかないのがこの世の常である。 作詞 まめ子 作曲 児玉龍典
自転車に乗っていたらふと浮かんできたしっとりとしたバラードである。
東京の冷たい夕焼け空をテーマに情熱を込めて書き上げたら、六分近い曲になってしまってへこんだことを記憶している。
ロマンチックなお話等では、夕日に向かって猛ダッシュしているカップルを見受けることがあるが、最近の方々がそのようなことをしているという話は全く聞かない。
やはり空想の中だからできることなのであろうか。 作詞 児玉龍典 作曲 児玉龍典
軽快なフォーク・ソングと解釈している。ある日、寝る直前に楽譜を描いていたらこれが出来てしまった偶然の産物である。
解釈によってはこの曲(詩)の真意が伝わるはずである。それ以外の場合には、『あ〜、ほのぼのしていて良い感じ!』という解釈がなされるであろう。
ストレートな表現は非常に恥ずかしいものである。
作詞 児玉龍典 作曲 児玉龍典
アコギやパーカッション、ボイス・パーカッションを用いた極端に暗い曲である。そして、アルバムのなかで最も小さな声で唄った曲でもある。
何か楽しい事をしている最中に、ふと寂しくなる事がある。それは、その楽しい事がいつかは終ってしまうからである。
しかし、終ると分かっているからこそ今が楽しめるという事実こそ、生命の真価ではなかろうか。
いつかその時が訪れたら、私は彼の地へ帰る事にしよう 作詞 児玉龍典 作曲 児玉龍典
私の最高傑作と自負している曲である。
この曲を作ったことで、『自己紹介』に記載した『パラダイムの転換』が起こった。自身の人生観を変えてしまった曲である。
血脈を遠い未来の視点と帰巣欲で詠った唄であり、人の思想の深淵には常に望郷の念があるべき、という意味もある。
無論、その反動が万物への意欲でもあるが。
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作詞 児玉龍典 作曲 児玉龍典
最初はセブンスのコードを多用して作った曲である。そうしていく内に「セブンス・ヘブン」と言う言葉を思いだした。やがて曲中であまりセブンスのコードを使わなくなったので「セブンス」を排除して「HEAVEN」というタイトルになった。
洋楽にも邦楽にもにていない、非常に独特の雰囲気を持った曲であると自負している。
世界平和は実現されるべきであるが、ある者にとっての楽園は、それ以外の者にとっては地 作詞 児玉龍典 作曲 児玉龍典
886環境の住人の生活をのぞき見た、そのほんの一例である。
非常に軽快なポルカ風の曲調で、彼が日常から半歩はみ出て出勤する様を描いている。
886環境がいかにあなたの身近にある物かがわかっていただけたらと思う。 作詞 赤堀 剛 作曲 児玉龍典
何の思い入れもない、ノリで作られた怒濤のヘヴィネスである。
思い入れがないと言うことは変にシリアスに成らずに済むので、様々な遊び要素を適当にぶち込みかなり面白い曲に仕立て上げることに成功した。 はず。
ありがとうありがとう
作詞 児玉龍典 作曲 児玉龍典
BPM240倍速2ビートの爆裂デスコア・スウィート・ラヴ・バラードである。
L-ZAのショウのために作り、一度だけ演奏された幻の迷曲(幻と誇張して言った所で誰も興味を抱かない現象を「ALDOBAL」と命名している。)である。
ファーストフード店の店員さんに恋をしてしまった男性の、悲しく無謀な危険妄想である。
よい子の皆さんは真似をした後にはちゃんと懲役に行きましょう。
歌詞 作詞 まめ子 作曲 児玉龍典
寝る前にギターを弾いていたら出来た曲である。
私はもともと臆病であり、それが誇りである。
臆病故に争いを好まず、臆病ゆえに法律に反することは避ける。なによりも人が争うことや、元気を無くしている、迷っている姿を見ると非常に胃が痛くなる。
はっきり言って私には凹んでいる友人に適切なアドバイスをし続ける知力や人徳、ましてや(『ALDOBAL』の定義に基づけば)その機会すら無い。
作詞 児玉龍典 作曲 児玉龍典
私と赤堀が14歳の時に作った、がんばれサラリーマン系の曲である。
そしてこの曲は私の友人であるドラマー、佐々木 優氏にドラムを叩いていただいた。時間と空間を越えたコラボレーションが非常に微笑ましい。
やはりこの曲を作った時にはまだ子供だったせいか、軽快なリズムと明るいメロディーが非常に初々しく感じる。しかし歌詞については、今読み返しても年齢にそぐわない非凡なパワーを感じている。
作詞 赤堀 剛 作曲 児玉龍典
押しも押されもせぬ「886」のクライマックスの曲である。
ヘヴィで壮大、プログレッシヴで叙情的なこの曲は私的難易度もトップクラス。二度と演奏できぬのではないかという仕上がりに大きな達成感を覚えている。
時間の経過は人を変えるのに十分な力を持っている。今はたまたま一緒に馬鹿なことをやっていられるかもしれないが、じきに自分の道が人とは違った方向に向かっていくことも多々あるであろう。
作詞 赤堀 剛・児玉龍典 作曲 児玉龍典
886の曲の内、最も多くの方が関わった作品である。呑気なポップスで、アルバムの本編の実質上ラストの曲である。
大袈裟な人生ドラマや人生の転機や山や谷やヘチマやらは何気無い日常を隠れ蓑にゆっくりと準備されている。人生の材料は平凡に隠れているのだ。
さて、では日常に壮大なドラマが有るかと云えば別にそうでもない。
「いつものことさ」と振り返る迄も無いことが、実はかけがえのない足跡なので 作詞 赤堀 剛 作曲 児玉龍典
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